【地方には自転車屋がない!!??】自転車がパンクしたので自転車屋を探し回ったら奇跡のハートウォームストーリーが発生した話
私は東京生まれ東京育ち。約40歳。
本年3月末に会社を辞め、同4月に妻の地元でもあり陶磁器(有田焼)でも有名な『佐賀県有田町』へ家族3人で地方移住をして来た、佐賀移住したてほやほやの新米地方移住者である。
さて、移住して1ヶ月半ほどが過ぎた私たちであるが、現在非常に困っていることがある。
それは 車がないということだ!!
実は私たち家族は車を所有していない。
佐賀移住前から「田舎では車がないと生きていけないぞ!」と多くの人から忠告されていたものの、「いやいや~そんな訳ないでしょ~、これまで自転車と歩きだけで生活しこれたし~。田舎の人はすぐ車で移動するって言うよね~。運動しなきゃダメだよ~。車なんてなくても余裕余裕~。」と、明らかに後で痛い目見るフラグを立てながら、忠告に全く耳を貸さなかった私。実際に車無しで住んでみたところ、おおかたの予想通り泣きながら後悔する事態となっている。
すいません。田舎舐めてました!
実際のところ、ここ佐賀県有田町でも車無しで生活が出来ないことはない。スーパー、コンビニは徒歩圏内にあるので、最低限の生活は出来る。出来るのだが、端的に言ってめちゃくちゃつまらん!車が無けれぱ、スタバに行くことも、温泉に行くことも、公園に行くことも、楽しいところへはどこへも行くことが出来ないのだ!
という訳で、地方では車がないと、生活が出来ないことはないまでも、不便で退屈に感じることを身を持って体感したのであった。逆に地方では、車さえあればその生活は一気に愉快で楽しいものとなると言える!!このため私もとうとう車を購入することを決めたのだが、本記事執筆時点でまだ車を所有していない。(現在購入手配中である。)
さて、本記事は「私が車を買う」話ではない。今回お伝えしたいのは、そんな車のない生活を送っていた私たちを突如襲った悲劇と、その悲劇によって偶発的に発生した軌跡のハートウォームストーリーである。
「自転車屋さんと僕」
車を持ち合わせていないため、 現在私たちの主な移動手段は『徒歩』および『自転車』である。特に『子乗せ自転車』は、娘との移動で使う超重要マストアイテムであり、われわれにとっての生命線と言っても過言ではない。
そんな中、先日、起きてはならない恐ろしい事件が突如発生した!!
なんと我々の生命線!子乗せ自転車がパンクしてしまったのだ!!
詰んだ。コレ完全に詰んだわ。。
すべの戦意を喪失したのも束の間。私はすぐに正気に戻った。
これは最優先で対応すべき超重大インシデント!!すぐに修理しなくては!
しかしここで、追い打ちをかけるかの様にさらなる想定外の問題が発生する!!
町内に自転車屋がない!!
なんと町内に自転車屋さんが見当たらないのだ。
詰んだ。もうコレは絶対に詰んだ。。
そう。地方は車社会。確かに落ち着いて回りを見渡せば、自転車に乗っているやつなど私以外いない!バカな!!殺す気か!?しばき倒すぞ!
再び正気に戻った私は、怒りのエネルギーをバネにして立ち上がった。私は家族を守るため、生きるために自転車屋を探すのだ!!
まずはネット検索だ!
早速ネットで検索してみると、最寄りの自転車屋さんは山を越えた先にある「松尾自転車店」という自転車屋さんらしい。
それでも、一応経路を調べてみると、
ふむふむ。なるほど。6.5km、徒歩1時間23分。
5月に入って急に暑くなってきた今日この頃、重量のある上にパンクした子乗せ自転車を押して山を越えて~、と。。。軍隊の訓練か!?しばき倒すぞ!!
申し訳ないが、「松尾自転車店」さんは無しだ!!とてもたどり着ける気がしない。「松尾自転車店」さんには全く罪はないが「松尾自転車店」さんは無しだ。
もうインターネットの情報は役に立たない!
こうなったら、自分の足で探すしかない!!
こうして私は自力で自転車屋を探すことにした。
私は重い子乗せ自転車を押しながら、町内を歩き。自転車屋を探した。
自転車屋を探した。
自転車屋を探した。
自転車屋はなかった。。
ないんだッ!!
自転車屋なんてものは・・・・!!
この「町」にはないんだッ!
まさかこれほどまでとは。。
全くの想定外。。圧倒的規格外。。
本当に自転車を修理するために山を越えるしかないのか??しばき倒すぞ。。。コレは本当にマジで詰んだ。。
諦めかけたその時、私の目に不思議な店が飛び込んできた。
なんだ?この店は??ぱっと見はこだわり強めの雑貨店にも見える。
しかし、自転車屋を強く求めるとことで、自転車屋センサーが常人の1000倍程度の感度になっていた私は、その店が発する「自転車屋的オーラ」を見逃しはしなかった。
思い切って近いづいてみる
思い切って近いづいてみると店の前のショーケースの中には、自転車の部品が並んでいるではないか!!
これは夢にまで見た自転車屋さん!!
なのか!!??いやどうなんだ!?近づいてもよく分らん!!
店先のショーケース近くには、他におもちゃや鳥かごようなものも陳列されている。
イヤ、本当!一体何の店だ!?ここ!!
正直言ってここは私がこれまで見てきたどの自転車屋さんとも違う。
しかし町内にある他のどの店よりも、自転車屋さん的オーラを放っていることもまた事実!そして私は今この有田町内で誰よりも自転車屋を探し求めている!!
思い切ってガレージの方に回ってみる
店先には人気がないので、私は思い切って裏手のガレージへと回ってみることにした。
そこは自動車整備場の様だ。雑然としたガレージの中には自転車修理用の機械や工具等があるように見える。よく分らないが、あのくるくるしたホースみたいなヤツは自転車の空気入れじゃないのか??
そして、さらによく目を凝らすと、、暗がりの中、椅子に腰かける人影が!!
おじさんがいたので話しかけてみた!!
おじさんは何やら机に向かって作業をしている様子だったが。ここまで来たので思い切って声をかけてみた。
私:「すいません。自転車の修理はやっていますか??」
おじさん:「・・・・」
聞こえなかったのだろうか?私はさらに近づき、大きな声で問いかけた。
私:「自転車の修理はやっていますか??」
おじさん:「ああ・・・いいですよ。」
やってくれる!!よっしゃー!!自転車屋さんだったーー!!いや、自転車屋さんなのか!?分からないけど、とにかくパンク修理してくれる!!
助かったーー!!
いろいろご主人と話してみた
椅子から腰をあげると、おじさんはこちらへゆっくりと近づいてきた。どうやらこの店のご主人のようだ。だが足が悪いのか慎重に杖を付き、ゆっくりゆっくりと歩いてくる。この足で自転車の修理が出来るのだろうか?工具を探すのにも骨が折れそうだ。ご主人の足が心配になったのと、ご主人とこのお店に興味がわいた私は自転車修理のごくごく簡単な手伝い(邪魔だったかもしれない)をしながら、いろいろと質問をしてみることにした。
私:「ここは自転車屋さんなんですか?」
(最初から一番気になっていた質問だ)
ご主人:「いや、昔はやっていたけど。もうやめたんです。」
(実際ご主人は佐賀弁でしゃべっており、聞き取れない部分も多々あったのだが、その辺は想像で補完した。本記事は補完後かつ標準語変換にてお送りする。)
私:「え?でも今日はやってくれんですか?」
ご主人:「はい。いいですよ。」
(特別対応してくれるということなのか?)
私:「ありがとうございます!ここの他に町内には自転車屋さんはないんですか??」
ご主人:「昔は何軒かあったけど、今はもうほとんどないですね。」
実はこの店、元は自動車整備会社をしながら自転車の販売と修理もやっていたらしい。しかし何年か前に自転車事業は辞めたのだという。とはいえ、町内に他に自転車屋がなく、自転車の修理などをおじさんを頼ってくる人も多いため、頼まれると対応しているらしい。おかげで私も助かった。
ご主人は早速修理をはじめてくれた。
ご主人は、これぞ職人という感じの寡黙な人だったが、人懐っこい笑顔からは内面の優しさが想像された。黙々と作業をし続けあまり自分からは話すことはなかったのだが、何故か佐賀移住してから割と社交的な人間になっている私は、手伝いをしながらご主人にいろいろな質問をしてみた。するとご主人は言葉少な目にゆっくりと断片的にその生い立ちなどを語ってくれた。
「浜口商会」店主、浜口さん(82)
このお店「浜口商会」の店主、浜口さん(82)は、長崎県鷹島に生まれ育った。年齢から逆算すると生まれたのは1937年。第2次世界大戦勃発の2年前ということになる。
長崎県、鷹島は佐賀県、伊万里市の北西部、伊万里湾に浮かぶ島だ。主な産業は農業と漁業。現在は人口2500人ほどだが、浜口さんが住んでいた当時はもっと多くの人が住んでいたかもしれない。この島は近年ようやく橋が架かり九州本土へ陸路で渡れるようになったのだが、それまで橋はなく、本土に渡る為にはフェリーに乗る必要があった。
全世界を巻き込んだ恐ろしい戦争は浜口さんが1歳の時に勃発し、8歳の時に終結。おそらく貧しい幼少期を過ごしたことだろう。浜口さんは高校まで島で過ごすと、卒業後フェリーで九州本土に渡り、伊万里の自動車整備会社に勤めた。この時が1956年。日本経済白書が「もはや戦後ではない」という有名な宣言をした年で、日本経済が上向いていた時代だ。この年に新社会人として社会の門を叩いた浜口青年の心は、きっと晴れやかな希望と夢に満ち満ちていたことだろう。日本初の純正の日本車トヨタのトヨペット・クラウンが発売されたのが1955年であることを考えると、分けても自動車産業はこの時代の最先端かつ急成長の花形業界であったことが想像出来る。
そんな好調な時代背景からか、伊万里の自動車整備工場に5年ほど勤めノウハウを学ぶと、浜口さんが23歳の時、ここ有田町にこの「浜口商会」を構えたのだった。日本のGNPが世界2位となり「東洋の奇跡」と謳われたほどの驚異的な経済成長を達成して見せて世界を驚かせた時代だ。
各メーカーから次々と純正の国産車が作られ始め、日本経済と自動車産業が最高に盛り上がっていた時代。そんな時代に浜口さんは、ここ有田に自身の自動車整備会社「浜口商会」を立ち上げたベンチャー社長だったのだ。
主な仕事は自動車の整備だったというが、その傍ら自転車の販売や修理も行っていたらしい。その後、オイルショックや景気の低迷、バブル崩壊、リーマンショックと決して平たんな道のりではなかったはずであるが、浜口商会はその荒波を乗り越え、60年経った今もこうして同じ場所でその店を営業をしているのだった。
数十分ほど経っただろうか、自転車の修理はクライマックスに近づいていた。丸いシールのようなもので丁寧にパンク穴をふさぐと、チューブをタイヤに収め、空気を詰める。
間もなく修理が完了した。
ありがとうございました!
浜口商会は浜口さんが歳を重ねるとともに、徐々に事業規模も縮小。現在は積極的に仕事はとっておらず、お得意のお客さんや浜口さんに仕事を頼む人の依頼を受けているだけという。自転車販売修理業については、先ほども書いた通り、すでに止めているのだが、それでも町内に他に自転車屋もない状況から頼まれれば対応しているという。
店の跡継ぎはおらず、浜口さんの代で浜口商会は完全に閉めてしまうとのことだ。
田舎の人手不足を肌で感じ、少し切なくなる瞬間でもあった。
浜口さんが辞めたら、有田町内の自転車のパンクは一体誰が直すというのだ。本当に隣町まで自転車をおしていくことになる。私もガチで困る。一瞬「私が継ぎましょうか?」と言いそうになったが、どこの馬の骨ともわからないのにいきなり失礼だし、あまり無責任なことは言うべきじゃないな。と言葉を飲み込んだ。
浜口さんはコレクションを見せてくれた
興味津々で話を聞く私に浜口さんも心を許してくれたのか。修理が終わると浜口さんは、私にとっておきの素晴らしいコレクションを見せてくれた。
「当時の自動車の整備会社用説明書」
これは、浜口さんが自動車整備会社をやっていた当時、メーカーから整備会社用に配られた車の説明書だという。
自動車にはあまり詳しくないのだが、これは貴重な品なのではないだろうか??中のイラストにも時代を感じる。
「当時の自動車のDM用パンフレット」
これは当時の車のDM用のパンフレットだと言う。「未使用だからインターネットで売っていいよ。高く売れるはず」と2種類いただいた。いくらで売ろう?
「鳥かご」
浜口さんの知り合いの方の手作りだという木製の鳥かごは、これまでに見たどの鳥かごよりも可愛らしく、品のいい鳥かごだった。
浜口さんは、これでメジロを買っていたらしいが、何度か野良ネコに取られたというほろ苦いエピソードも話してくれた。
「表のウィンドウにある雑貨など」
これは一応売り物らしい。いらなくなったものを置いているとのことだ。
そういえば、表にもたくさん鳥かごがある。可愛い!!
最後に、修理代1500円を手渡すと「また遊びに来ます。今度おじさん家の掘り出し物、ネットで売りますから、売り上げ山分けしましょう。」と冗談交じりで約束を交わすと、私は店を後にした。
自転車のパンクから始まった軌跡のハートウォームストーリー「自転車屋さんと僕」
今後新展開はあるのか、ないのか?
とにかく町内唯一の自転車さんなので、リピートは必定。また遊びに行っていろいろ話をしたい。
<今回ご紹介したお店の情報>
店名: 浜口商会
住所:〒844-0018 佐賀県西松浦郡有田町本町丙785−4
営業日:多分毎日(店の前通ると大体いつも開いているから)
休日:多分なし(店の前通ると大体いつも開いているから)
筆者総合評価:★★★★★ 5.0
コメント:「最初何の店か分かりませんでしたが、勇気をだして裏のガレージまで行くと、優しい店主さんに自転車の修理をしてもらえました。」(M氏)